【サムライ #06】神に委ねた男、新島襄
この記事のポイント
・すべてを棄て、神にゆだねた
・ボストンで必死の祈り
・神の志を自らの志に
イントロダクション
前回は同志社大学の創設者として知られる新島襄が、国禁を犯して密出国したことをご紹介しました。21歳の彼がほぼ無一文に近い状態で海外への脱出を果たせたのは、労働を条件に無料での乗船を許可してくれた船長などの存在がありました。
今回は、そんな新島の密出国後の足取りをご紹介してまいります。
ポイント1:すべてを棄てて 神に人生を委ねる
まず、新島は上海行きのアメリカの商船ベルリン号に乗り、函館から密出国を果たしました。新島は、自己の身分も棄て、ひたすら運命を神の御手にゆだねて日本を脱出しました。
上海に着いた新島は、アメリカ行きのワイルド・ローバー号のテイラー船長(Horace S. Taylor)に迎え入れられます。テイラーは熱心なキリスト教徒で、新島が船で労働することを条件に無料での乗船を認めました。ちなみに、テイラーが彼を英語で「ジョー」と呼んだので、新島は後に「襄」という日本名を名乗るようになったのです。
新島は日本を出た時、大小二本の刀を身に着けていましたが、航海の途中で小刀を売り、そのお金で聖書を購入します。そして武士の命であった大刀は、感謝のきもちとしてテイラーに贈りました。しかし、ようやくアメリカに到着した新島を待ち受けていたのは過酷な現実でした。
ポイント2:神に見捨てられた? 「無理」な状況
1865年の7月、1年以上かけて、新島はついにアメリカの東海岸ボストンに到着します。それは、龍馬暗殺の2年前のことです。当時は、アメリカも激動の時代。南北戦争(1861-1865)が終わって間もない頃で、人々も戦後の物価上昇に苦しんでいました。港の人々は皆、異口同音に、「おまえに手を差し伸べてくれる者など一人もいないぞ。残念だが、もう一度海に戻るしかない」と言いました。
周りの無理解のなか新島は、毎晩神に祈りました。
「お願いですから私をみじめな境遇に追いやらないでください。どうか私の大きな志を成就させてください」
ポイント3:人生を委ねた人を 神は見捨てない
絶望的な状況は3ヵ月ほど、続きました。しかし、ついに新島の身元の引き受け手が登場します。それは、新島がアメリカに渡ってきたローヴァー号の船主(ふなぬし)であるハーディーでした。
それから私は船の持主であるハーディーさまが私を学校へ送り、経費を一切出してくださるかもしれないことを知った。船長からこのことを初めて聞かされた時、私の両眼は涙にあふれた。氏への感謝の気持が大きかっただけでなく、神は私をお見捨てにならない、と思ったからである。
神にすべてを委ねた者を、神が見捨てることはないのです。新島は1866年に受洗し、翌年、アマースト大学に入学しました。
日本の将来を憂いて密出国した青年は、約10年後の1874年、日本人初の学位を取得すると共に、アメリカン・ボードの宣教師として日本に帰国。その翌年、キリスト教教育による日本の救済を目指して、同志社大学の前身である同志社英学校を創設しました。
まとめ & 次回予告
以上、新島襄が函館から密出国してから、志を胸に日本に帰国するまでの道のりを、3つのポイントに絞ってご紹介しました。
・すべてを棄てて神に人生を委ねる
・神に見捨てられた?「無理」な状況
・人生を委ねた人を神は見捨てない
すべてを棄てて神に従った新島は、なんとかアメリカにたどり着けました。しかし、彼を待っていたのは絶望的状況でした。そのような状況下で神がハーディーを遣わし、新島はさらに信仰を強め、神の僕としての人生を歩んでいくのです。
新島の同志社創設の道は、山本覚馬との出会いを抜きにしては語れません。新島は帰国後、山本覚馬と出会い、1875年に連名で京都初のキリスト教主義学校である同志社の開業願いを提出しました。そして、同じ年に覚馬の妹である山本八重と婚約し、翌年結婚するのです。
次回は、そんな山本八重と聖書の関係について、迫ってまいります。どうぞお楽しみに!