【サムライ #05】新島襄を変えた真理

この記事のポイント

・先の見えない少年時代
・新しい世界へ、密出国を決意
・新しい秩序に見出した真理

イントロダクション

同志社大学の創設者として知られる新島襄は、坂本龍馬暗殺の3年前、1864年に国禁を犯して密出国しました。腰に帯びた両刀以外、無一文に近い21歳の青年がどうして海外に脱出したのでしょうか?今回は、新島の生い立ちや、聖書との出会いなど、海外脱出の経緯に迫ります。

ポイント1:待望の男子として誕生! 悶々とした少年時代

新島襄は1843年、神田一ツ橋外にあった上野安中(あんなか)藩主の江戸屋敷で生まれました。幼名は七五三太(しめた)ですが、それは四人の姉の次に、やっと誕生した男の子だったため、祖父が「しめた!」と言ったことに由来するとされています。1853年、10歳になった七五三太は、武士の子供として馬術や剣術の教練所に通い始めました。ちょうど黒船来航の年でした。

七五三太は16歳になり、安中藩主の江戸屋敷勤めに抜擢されますが、仕事になじめません。いつしか、蘭学を学ぶために執務室を抜け出すようになりました。国家存亡の危機に直面している日本の将来を案じる思いがあったのでしょう。

しかし上司からは叱られ、周囲からも理解されません。彼は、猛勉強の末に、ついにノイローゼになってしまいます。しばらく休暇を取ってから仕事に復帰しましたが、執務室に詰めることが求められ、人生に行き詰まりを感じていました。

ポイント2:閉塞感を打開して 新しい世界へ

七五三太は『ロビンソン・クルーソー』の訳本を友人から借りて読みます。主人公のクルーソーは、家族、とりわけ父の反対を押し切って冒険に飛び出し、カリブ海で遭難し、孤島でひとり、さまざまな苦難に挑戦します。その姿は、七五三太に海外脱出の勇気を与えたに違いありません。

しかし、七五三太はすぐに海外脱出を決行したわけではありませんでした。1864年3月、彼は蘭語と航海術を学ぶために函館に行くと申し出て、安中藩からも了承を得て、江戸を出発します。そして、函館で、坂本龍馬の従兄弟である沢辺琢磨(さわべ たくま)や福士卯之吉(ふくし うのきち)の協力を得て、1864年6月の夜に密出国したのです。

ポイント3:聖書にふれて 真理を見出す

七五三太が国禁を犯してまで脱国したのは、聖書が真実であるという確信があったからに違いありません。

七五三太は函館に向かう前、江戸で友人から漢訳の聖書を借りて読んでいます。当時、聖書は禁書で、読んでいるとわかると、幕府が家族全員をはりつけにすることもありました。しかし、七五三太は危険を冒して聖書を読み、神への信仰を持ちました。

「誰が私を創ったのか。両親か。いや、神だ。……そうであるなら私は神に感謝し、神を信じ、神に対して正直にならなくてはならない」(『現代語で読む新島襄』50頁〜)

新島は、これまで親しんできた「将軍――藩主――両親」という秩序に代わる、万物の造り主である神を頂点とする 新しい秩序を直感したのでしょう。

まとめ & 次回予告

以上、新島が密出国するまでのストーリーをご紹介しました。

・待望の男子として誕生!悶々とした少年時代
・閉塞感を打開して新しい世界へ
・聖書にふれて真理を見出す

彼は長男として生まれ、武士として育てられましたが、人生に行き詰まりを感じていました。そんな時に友人を通して『聖書』に触れ、新しい秩序に真理を見出し、すべてを捨てて、密出国を決意したのでした。

次回は、新島襄のその後の足取りに迫ってまいります。実は、私たちに馴染みのある「襄」という名前も密出国後にアメリカ人がつけたニックネームに由来しています。どうぞお楽しみに!

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