【サムライ #04】津田梅子と聖書

この記事のポイント

・7歳で渡米し、聖書を信じた梅子
・津田仙は「進歩に貢献する宗教」であるキリスト教に回心?
・津田仙が士族籍を棄て、平民として生きた理由

イントロダクション

津田塾大学の創立者として知られる津田梅子。2024年に発行されるという新5000円札の図柄にも選ばれている女性です。梅子は7歳にして「岩倉使節団」の一員としてアメリカに渡り、聖書の教えに触れて洗礼を受けました。梅子を使節団に入れたのは旧幕臣だった父の津田仙です。

今回は、津田梅子と父、仙が、どのように聖書と出会ったかについて、ご紹介してまいります。

ポイント1:7歳でアメリカに 津田梅子と聖書

明治政府は1871年、百名以上もの使節団をアメリカやヨーロッパに派遣しました。この使節団は政府要員が中心になっていましたが、政府はこの一行に女子5人を含む留学生約60人を同行させました。

1872年、女子留学生は一行と別れ、それぞれアメリカ人の家庭に引き取られました。そのお世話をしたのが森有礼でした。彼はアメリカでキリスト教に触れ、大きな影響を受けていたとされ、女子留学生らのホームステイ先もキリスト教徒の家庭になるよう配慮しています。

梅子が日本に戻るまでの11年間、ランメン夫妻のもとで過ごしました。ランメン夫妻は聖公会の忠実な会員で、梅子も教会学校に通います。そして、1873年、8歳になった梅子は突然「洗礼を受けたい」とランメン夫妻に申し出て、洗礼を受けたのでした。

ポイント2:社会の進歩に貢献する キリスト教!?

1873年、梅子がアメリカで受洗した年の1月、梅子の父、津田仙はウィーンで開催されていた万国博覧会に民部省農寮職員、農業関係の専門家として視察団に参加しました。この時、仙はヨーロッパの先進国の農業技術の進歩に驚きますが、むしろ欧米文化の根本となっていたキリスト教により大きな衝撃を受けました。

「私はもとより、農業に関する事柄を調査すべきであったが、大博覧会場にて最も意外に感じたのは、耶蘇教の経典バイブルが多数陳列されていた事である。」(都田豊三郎『津田仙:明治の基督者』大空社。)

仙は帰国後、ソーパー宣教師が毎週自宅で開いていた集会に赴くようになります。そして、1874年に夫妻で洗礼を受け、その後、子供らも洗礼を受けました。

ただ、ここで仙が関心を持ったのは、キリスト教が、社会の進歩と文明化に顕著に貢献する宗教だと考えたからだったようです。晩年の仙はこのように回顧しています。

「当時キリスト教に対する思想と信念とは甚だ浅薄なものであった故、之を奉じて国家の為に尽さんとの単純なる志望に過ぎなかった。」(宕峯生「津田仙氏と語る」『護教』697、1904年。)

ポイント3:仙が自覚的に選んだ 平民としての人生

仙は自覚的に、平民として生きることを選んだ人でした。仙の最期は、その彼の生き様を証しています。1908年、彼は品川から鎌倉に帰る三等車の中で脳出血に襲われ、70歳で世を去りました。当時としては超高齢者であった仙が、体調不良の中、一等車両に乗車できるだけの運賃を持ちながらも三等車に乗車して死亡したことは、各紙で報じられました。

明治維新で生まれた藩閥政治体制のもとで、旧幕府側の人々は、日の目を見ない人生を送るよう強いられ、また彼ら自身も政府の中枢で働く機会が与えられたとしても、それを潔しとしない傾向が強かったようです。

仙の場合は、士族籍さえも棄て、平民として生きることを選びました。そして、農業、女子教育、障害者教育、朝鮮人との交流、鉱毒事件などに取り組みました。彼は人が神の前に平等であることを示すため、一人の平民として生きることを選んだのです。

まとめ & 次回予告

以上、津田梅子と津田仙の聖書との関わりについて、ご紹介しました。

・津田梅子は8歳で受洗した
・津田仙はウィーンから帰国後に受洗「社会の進歩に貢献する宗教だから」
・自覚的に選んだ平民としての人生「人は皆、神の下に平等」

仙の意向で渡米した梅子は8歳にして洗礼を受け、またウィーンでキリスト教に触れた父の仙も、帰国後に洗礼を受けました。仙は当初、どちらかというと国の役に立つ手段としてキリスト教を捉えていたようですが、その後、人が神の下に平等であることを、人生を通して証ししたと言えます。

次回は、同志社大学の創設者としても知られる新島襄と聖書の出会いに、迫ってまいります。どうぞお楽しみに!

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