【ワンポイント解説】過越祭と主に仕えること
この記事のポイント
・イスラエルの民は神に仕えるためにエジプトを出た
・荒野では神がイスラエルの民に仕えた
・約束の地への道は、民が神に仕える道となった
毎年春に祝われる過越しの祭り。出エジプトに由来するこのお祭りは旧新約聖書を通して様々な箇所に登場し、今もユダヤ人に祝われている大切なお祭りです。今回は、主に仕えることをキーワードに、過越しの祭りについてご紹介してまいります。
ポイント1:神に仕えるためにエジプトを出た民
エジプトの地で奴隷であったイスラエルの民は苦しみ、神に叫びました。神は父祖アブラハムにカナンの地を与えると約束されたことを思い起こされ、モーセを遣わします。
モーセは「神に仕える」ために、民を荒野に行かせて欲しいと、エジプトのパロ(ファラオ)に願います。しかし、パロはこれを拒みました。
すると、エジプトには次々に多くの災いが起こり、最後に長男はすべて死んでしまいます(長子の死)。
しかし、イスラエルの民は小羊を殺してその血を玄関に塗ったので、災いはイスラエルの人々の家を「過ぎ越し」ました。この事件を記念するのが、過越しの祭です。
この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り、代々、永久の定めとしてこれを守らなければならない。(出エジプト記12:14)
さらに、神は、約束の地に入った時に過越の祭りを行うようにとも命じられました。
あなたがたは、主が約束されたように、あなたがたに賜る地に至るとき、この儀式を守らなければならない。(出エジプト記12:25)
ポイント2:荒野では神がイスラエルに仕えた
そしてイスラエルの民は荒野に来ます。それは「神に仕える」ためでしたが、神は、昼は雲の柱、夜は火の柱で、民を導かれました。
民は荒野の不自由な生活と食糧の乏しさ、そして喉の渇きに不平と不満を募らせて呟きますが、泉から水が与えられ、夕方にはうずらの肉、朝には天から降って来たパンであるマナも与えられます。
わたしは四十年の間、あなたがたを導いて荒野を通らせたが、あなたがたの身につけた着物は古びず、足のくつは古びなかった。(申命記29:5)
神に仕えるために荒野に来た民は、逆に神から必要なすべてのものを与えられ、神に養われたのでした。
ポイント3:約束の地への道は、神に仕える道
では「民が神に仕える」という話はどうなったのでしょうか。神は計画を変更されたわけではありません。荒野の旅の中で、神は、ご自分に仕える道を示されます。
「あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう」。(出エジプト記19:6)
祭司として「神に仕える」ためには、聖なるものとならなければなりません。ですから、神に従わなかったイスラエルの民は荒野で死に、荒野で生まれた次世代の人々が、ヨルダン川を渡って約束の地に入ることになりました。
そして神は、約束の地に入った人々に割礼――つまり聖なる神の民としてのしるしを施すようにと命じます。そして民は、神に仕える者とされたのです。
まとめ
約束の地に入ったイスラエルの民は、神に仕える者としての印をその身に刻み、エジプトを出た時に父祖たちが祝った過越しの祭を、初めて祝いました。
それから数千年の時が流れ、イエス・キリストもまた、十字架につく前の夜に弟子たちと共に過越しの祭を祝い、彼らが神に仕える準備をされました。それは、現在の教会で守られる「聖餐式」にもつながっています。
神に仕える道は簡単ではありませんが、神はご自分に仕える人々を守り、特別な祝福を与えて下さいます。神は今も、ご自分に仕える人々を求めておられます。
あなたもその祝福にあずかってみませんか?