【聖書講座 #12】弟子の召命

この回のポイント

イエスは「人類の罪を取り除く」という壮大な業を始めると同時に、彼の働きを地上で受け継いでいく「弟子」と呼ばれる人々を次々に選びました。

「人が神を選ぶのではなく、神が人を選ぶ」(ヨハネ15:16)は、聖書を通じて何度も語られる主題。

しかし、選びは決して「えこひいき」ではなく、選ばれた人は選ばれなかった人々のために働かなければならないのです。

今回学ぶ個所の最後で、イエスが弟子たちの中から選ぶ十二人は「使徒」とも呼ばれ、これから重要な役割を果たして行きます。

宣教の開始

前回はイエスの誕生から宣教活動を始めるまでを「ルカによる福音書」を中心に学びました。

今回からは「マタイによる福音書」を中心に学んでゆきます。

イエスは、故郷のナザレを出てガリラヤ湖のほとりにある、カペナウムに移り、そこを拠点に「悔い改めよ、天国は近づいた」(4:17)と人々に伝え、宣教を開始しました。

最初に弟子になった4人の漁師

最初に弟子になった4人について、まず、4章の記事から読んでみましょう。

さて、イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。そこから進んで行かれると、ほかのふたりの兄弟、すなわち、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで彼らをお招きになると、すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った。(マタイ 4:18)

イエスとの出会いによって、彼らはガリラヤの漁師から、地中海世界を舞台に福音(神の国の到来)を宣べ伝える者となりました。

律法の定めから、さらに踏み込んだ教えへ

イエスは、ガリラヤ全地の諸会堂で教えるとともに、あらゆる病人を癒したので、大勢の人々が集まって来ました。イエスは山に登り、教えを語りました。

マタイによる福音書5~7章にあるその説教は「山上の垂訓」と呼ばれています。では、その冒頭から読んでみましょう。

こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。(マタイ 5:3-10)

そして、イエスは律法の定めから、さらに一歩踏み込んだ教えを説いています。山上の垂訓では、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と、語られています。

さらに、イエスは祈り方についても教えています。

また、「あすのことを思いわずらうな」という言葉も、山上の垂訓を代表する教えのひとつです。(マタイ6:31-34)

イエスが語った「王国」の到来

イエスの教えに繰り返し登場する「天国」「御国」「神の国」という言葉は、すべて同じ意味です。

日本語で「国」と訳されている言葉は、ギリシア語ではバシレイア「王国」です。

それは、創造主である神が支配される世界であり、その「王国」が到来するための備えについて、イエスは様々な角度から語ったのです。

ローマの百卒長

イエスはイスラエルの地で活動したため、彼に従った大半の人々はユダヤ人でしたが、それ以外の民族の人々もいました。

「マタイによる福音書」8章には、当時の支配者だったローマの軍人である百卒長(百人を指揮する隊長)が、病気で苦しんでいる自分の僕を癒してくださるようにと、イエスに願い出た話も書かれています。(8:7-10)

当時のユダヤ教の二大勢力、サドカイ派とパリサイ派

やがてイエスは、ユダヤ教の指導者たちと対立するようになります。当時のユダヤ教は、サドカイ派とパリサイ派という2大勢力が対立していました。

サドカイ人(あるいは祭司長)は神殿での祭儀を取り仕切る特権階級でした。

一方、パリサイ人(あるいは律法学者)は民衆に支持を広げていました。イエスは、パリサイ派と同様に民衆に語りかけました。

福音書には、イエスとパリサイ人が論争をする場面が多く描かれていますが、実はイエスは、パリサイ派の一員として内部改革を目指していたとする見解もあります。

イエスを快く思わなかったパリサイ人

ある時、イエスが病人に「あなたの罪はゆるされた」(9:2)と言われると、律法学者たちは「この人は神を汚している」と心の中でつぶやき、それを見抜いたイエスは、「人の子は地上で罪をゆるす権威をもっている」と宣言しました。「人の子」は、メシアの呼称のひとつで、イエスが自分を指して用いた言葉でした。

パリサイ人は、罪人と一緒に食事をすると汚れると考え、同じ食卓につくのを嫌いました。

しかし、イエスは罪人と考えられていた人たちと一緒に食事をし、「丈夫な人には医者はいらない。…わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(9:12-13)と言われたのです。

イエスの弟子になった取税人マタイ

そしてイエスは新たな人々も弟子に加えていきました。ある日、イエスが収税所の前を通りかかると、そこにマタイという取税人がいました。

ローマの手先となってユダヤ人から税金を取り立てる取税人は、民衆から忌み嫌われる存在でした。

ところがイエスはマタイに「わたしに従ってきなさい」と言われたのです。すると彼は立ちあがってイエスに従いました。彼は後に、「マタイによる福音書」を書いた人物だと言われています。

パリサイ人ニコデモとの問答

また、「ヨハネによる福音書」の3章には、ニコデモというパリサイ人の記事があります。

彼はある夜、人目を忍んでイエスを訪ねて来ました。するとイエスは「水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない」と答えました。ここは「ニコデモ問答」と呼ばれ、非常に深い意味があります。

この問答の中でイエスは「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)と語られました。

この言葉は、聖書全体のメッセージを簡潔に示した名言として、よく知られています。

弟子たちを任命する

イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになりました。

しかし、困難を抱えているすべての人々を救うことはできません。そこでイエスは弟子たちに言われました。では再び、「マタイによる福音書」に戻ります。

「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。(マタイ9:37)

そしてイエスは、十二弟子を任命しました。

①ペテロと呼ばれたシモンと
②その兄弟アンデレ、それから
③ゼベダイの子ヤコブと
④その兄弟ヨハネ、
⑤ピリポと
⑥バルトロマイ、
⑦トマスと
⑧取税人マタイ、
⑨アルパヨの子ヤコブと
⑩タダイ、
⑪熱心党のシモンと
⑫イスカリオテのユダ。(マタイ10:2-4)

このユダは、後にイエスを裏切りました。

また、イエスは彼らを町々に派遣するにあたって、こう命じています。

……「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町にはいるな。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け。 行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ」(マタイ 10:5-7)

この段階でイエスが伝道の目標としたのは「イスラエルの家の失われた羊」つまり、ユダヤ人でした。世界に福音を伝える働きは、後に弟子たちに託されるのです。

次回予告

さて、次回はガリラヤを中心とした彼らの宣教活動について、「マタイによる福音書」の12章から学んでゆきましょう。

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