【聖書講座 #20】ヨハネと黙示録
この回のポイント
最終回は、残りの書簡である「ヨハネ文書」などと、聖書の最後で異彩を放つ「ヨハネの黙示録」を学びます。
ヨハネの黙示録は、普通に読むだけでは理解しがたい「黙示文学」ですが、簡単に言うと「様々な困難はあるが、キリストが最後に勝利される」というメッセージです。
創世記や様々な預言書で語られた多くの重要主題が再び登場する「完結編」となっており、最後は「主イエスよ、きたりませ」と締めくくられています。殉教していく人々を励ました勝利の書を、味わってみましょう。
エルサレム神殿の崩壊
前回は、パウロやペテロなど、使徒たちの苦難について学びました。
最終回となる今回は、ユダの手紙とヨハネの手紙、そして、キリストの再臨を描いた「ヨハネの黙示録」のお話をいたしましょう。
使徒たちを迫害したローマ皇帝ネロは、紀元68年に失脚し自害しますが、70年には将軍テトスに率いられたローマ軍が、ユダヤ人の反乱を制圧するという事件が起こり、壮麗だったエルサレムの神殿は破壊されてしまいました。
そして、神殿の祭具もみな戦利品としてローマに持ち帰られてしまいます。こうして、第二神殿時代は終わりを告げ、ユダヤ人たちが祖国を失って世界に離散する「ディアスポラ」の時代が始まりました。
「ユダの手紙」
キリスト教徒に対する迫害はネロの死後、小康を保っていましたが、やがてさらに大規模な迫害が起こるだろうと、誰もが予感していました。
この時代に書かれたとみられる短い書簡、「ユダの手紙」からは、異端者との戦いが激しくなっていたことがうかがえます。
パトモス島に流刑になったヨハネ
そんな厳しい時代、使徒たちの中で最年少だったとされるヨハネは、パトモスという島に流刑になりましたが、殉教は免れました。
彼は一世紀の終わり頃まで生きたようです。彼が書いた「ヨハネによる福音書」は、三つの共観福音書には書かれていない記事が多いことから、それらを補うために書かれたとする説もあります。
ヨハネの福音書と、彼の書いた三通の手紙には、共通した特徴が見られます。
特徴1:愛の重視
第一は、「愛」を重視することです。「ヨハネによる福音書」の中では、神がキリストを愛されたこと、またキリストが弟子たちを愛されたことが何度も語られます(17:23-26)。
「ヨハネの第一の手紙」にも、このような言葉があります。
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。(4:10-11)
ヨハネが使う「愛」という言葉は、ギリシャ語で「アガペー」という単語で、神やキリストによる無条件の愛を意味します。この愛は無条件かつ、永遠の愛でクリスチャンは愛し合うべきだ、とヨハネは教えたのでした。
特徴2:超越的なキリスト像
第二の特徴は、超越的なキリスト像です。天地創造の前からおられたキリストを、ヨハネは特に強調します。
「ヨハネによる福音書」の冒頭では「言(ことば)」が語られますが、それは永遠のキリストを指しています。「ヨハネの黙示録」に登場するキリストは、私たちの想像を超えた存在です。
そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。 それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。(ヨハネの黙示録 1:12-17)
これは典型的な「黙示文学」です。
七つの教会に宛てられた「ヨハネの黙示録」
ヨハネは幻の中で、神とキリストに出会い、「これから起こること」を見せられます。
黙示録の最初の部分には、パトモス島の周辺にあった七つの教会に対する個別のメッセージがありますが、それらの中には「死に至るまで忠実であれ」(2:10)など、迫害や殉教が切迫していることを暗示する言葉が並んでいます。
迫害に耐える覚悟を決めることは、黙示録の重要なメッセージです。
その後、七つの封印がされた巻物が登場し、その封印がひとつ解かれるたびに、大災害の準備が整います。その時、十四万四千のイスラエル人や、数えきれない異邦人が登場し、彼らには神の印が押されます。その後に大災害が起こるのですが、神の印が押された人々は守られます。
ここで突然、イエスの母マリヤを思わせる女性が登場し、キリストと思われる子供を産むのですが、その時、龍あるいは「年を経たへび」が天から投げ落とされます。
永遠に存在するキリストが、泣き叫ぶ女性から生まれるという、あまり「ヨハネ的」でない場面は、どうやら「女のすえが蛇を倒す」という創世記3章のメシア預言と呼応しているようです。
「大いなるバビロン」の敗北
さて、地に落とされた龍の方も負けてはいません。彼はその手下である獣を使って、神に従う人々を苦しめるのです。獣は地上を支配し、人々に「666」という刻印を押します。ここは、獣の刻印を拒否する聖徒たちの忍耐の時なのです。
しかし、ここで獣の刻印を押された人々は、次の章になると七つの鉢に盛られた神の怒りを身に受けることになります。その後、「大いなるバビロン」と呼ばれる悪の勢力は、完全な敗北を喫するのです。
ところで、「バビロン」は、ヨハネが生まれる何百年も前にすでに滅び去った国です。それなのに、ここでヨハネはなぜ「バビロンの滅び」を語ったのでしょうか。
それはローマ帝国を暗示する表現だと、多くの人々が考えています。ローマ帝国が厳しくキリスト教を監視する中で、直接的なローマ批判の文書を書けば、書いたヨハネも、読んだ人々にも危険が及ぶことは明らかでした。
一見、何が書かれているかわからない「黙示文学」、という形式で書かれたのは、一種の「暗号」だったのかもしれません。
この書が教えているのは、どんな困難があったとしても、最後に必ず悪は滅びる、という望みです。実際、キリスト教はヨハネの死後に激しい迫害を受けましたが、結局はローマの国教となりました。
そのローマ帝国は、東西に分裂して滅び去りましたが、聖書のメッセージは、今なお多くの人々の心を捉えています。
キリストの結婚式の光景
さて、ホセア、エレミヤなど、旧約聖書の預言者たちは、神とイスラエルを夫婦にたとえ、イエスも多くの「婚宴のたとえ」を語りました。
そしてパウロも手紙の中で「あなたがたを、きよいおとめとして、ただひとりの男子キリストにささげるために、婚約させた」(Ⅱコリ11:2)と書いています。
キリストを信じて洗礼を受けることは、キリストとの婚約です。というわけで、そのキリストの結婚式の光景が、「ヨハネの黙示録」の最後に描き出されます。
また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。(ヨハネの黙示録 21:2-4)
新しいエルサレム
その新しいエルサレムには、川の両側に「いのちの木」があって、「その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす」(22:2)と書かれています。
人類が善悪を知る木から取って食べ、エデンの園を追放された時、閉じられて失われたかに見えた命の木に至る道は、キリストの花嫁となった人々に開かれるのです。
黙示録には、旧新約聖書のあらゆる主題がちりばめられており、神のもとを離れた人類が、再び神のもとに帰る壮大なドラマの「完結編」と言えるでしょう。
ただ、この書には、不思議な言葉が並んでおり、極端な解釈が出やすいことも事実です。聖書によく親しんでいる方と共に学ばれることをお勧めします。
まとめ
さて、これで20回にわたる旧新約聖書の学びは終わります。この講座を通して、聖書の世界の一端をお伝えできたとすれば幸いです。
聖書の御言葉は現在もなお、多くの人々の人生の原動力となっています。
みなさまも、聖書の言葉によって生き、白く輝く衣を身に着けた「キリストの花嫁」として人生を歩んでいきましょう!