【聖書講座 #19】使徒たちの苦難
この回のポイント
今回は、パウロの残りの手紙と、彼の獄中生活、使徒たちへの迫害について学びます。皇帝ネロのもとで激化したキリスト教徒への迫害で、十二使徒の多くが殉教しました。
それでも彼らは、キリストの復活を目撃した「証人」として、語らずにはいられなかったのです。獄に閉じ込められたパウロが書いた手紙には、宇宙規模の壮大なキリスト論が展開されています。

パウロの名による様々な書簡
前回は、パウロのエルサレムへの旅から、裁判、ローマへの護送についてお話ししたあと、「ローマ人への手紙」を学びました。
今回は、パウロの複数の手紙を中心に取り上げ、使徒たちの苦難について学びます。はじめに、パウロの手紙について、簡単にご紹介しましょう。
一般的に、新約聖書中パウロの手紙とされているものは13通あります。手紙は、四大書簡、獄中書簡、牧会書簡などの区分がありますが、今回は、獄中書簡と牧会書簡を取り上げます。
先回は、パウロがローマで自分の借りた家に満二年間住んで、福音を宣べ伝えたところまでをお話ししました。実は、この二年間(61~63年頃)に、四通の獄中書簡が書かれたと伝えられています。「獄中書簡」と呼ばれてはいますが、実際には軟禁状態の中で書かれた手紙と考えてよいでしょう。
では、四通の書簡について、お話ししてゆきます。
「エペソ人への手紙」と「コロサイ人への手紙」
「エペソ人への手紙」は、パウロが周囲のアジヤの諸教会への回覧を目的に執筆したものだと言われています。
この手紙には、宇宙規模で展開するキリスト論、また、ユダヤ人の信徒と異邦人の信徒が「ひとりの新しい人」(2:15)とされたことなど、新約聖書の重要な原則が述べられています。
「コロサイ人への手紙」は、エペソの東方約160キロの所にある、コロサイの教会に宛てて書かれたものです。
この教会は、パウロが第三回宣教旅行の折、エペソ滞在中に改宗したエパフラスが設立したと伝えられています。
パウロがエペソを去って後、コロサイの教会には、神秘思想や誤ったユダヤ教的な教え、天使礼拝など、異端的な要素が入り込んだため、エパフラスは、これらの問題を解決するためにパウロを訪問しました。
しかし、エパフラス自身もローマで捕えられてしまい(ピレ23、コロ4:12)、パウロは、まだ訪問したことのないコロサイの教会に手紙を書き送ることにしたのです。
この手紙には、異端的な教えについての注意の他に、「エペソ人への手紙」と同じく、壮大なキリスト論が展開されていることも大きな特徴と言えるでしょう。
「ピレモンへの手紙」
「ピレモンへの手紙」は、コロサイの教会の中心人物であったピレモンに宛てた個人的な書簡です。
ピレモンの奴隷であったオネシモは、何か不都合なことをしたか、あるいは、何か負債がある状態で、ローマに逃亡しますが、そこでパウロに出会い、福音を聞いて回心します。
オネシモはしばらくの間、パウロに仕えていましたが、パウロは「奴隷以上のもの、愛する兄弟として」オネシモをピレモンのもとへ帰し、和解することを願います。
この手紙から、パウロは福音が単なる概念の問題ではなく、生き方の問題であることを提示しています。
実は、パウロはエペソの教会、コロサイの教会、ピレモンに宛てた三通の手紙を、パウロの同労者であるテキコに託し、オネシモも連れてコロサイに旅立たせたのでした。
「ピリピ人への手紙」
「ピリピ人への手紙」は、パウロが第二回宣教旅行で訪れ、ヨーロッパで福音を伝えた最初の都市、ピリピの教会に宛てて書かれた手紙です。
この教会は、パウロの伝道を経済的に支援していたので、信徒のエパフロデトをローマに遣わし、パウロに贈り物を届けさせました。
しかし、エパフロデトはローマ到着後、重病になり、パウロは彼の快復を待って感謝の手紙を託し、ピリピへ送り帰したのでした。
この手紙の中でパウロは、囚われの身になっていることが福音の前進に役立っていること、生死を通じてキリストの栄光を顕わすことを願っていることを語り、この教会が抱えていた信徒同士の対立などの問題について、模範はキリストであり、共に喜ぶことの重要性を伝えています。
「テモテへの第一の手紙」、「テモテへの第二の手紙」、「テトスへの手紙」
さて、パウロがこれらの手紙を書き、二年間の軟禁生活から釈放されてから後のことについては、よくわかっていません。
「ローマ人への手紙」には、パウロがスペイン訪問を予告している箇所もあります(15:28)。果たしてスペイン行きが実現したかどうかは不明ですが、パウロは釈放後、数年間の宣教旅行に出掛けたという説もあります。
このように、彼のその後の足取りを辿ることはできませんが、その間に、彼は自分の後継者として教会の指導を任せようとしていた弟子たちに手紙を書き送り、最後の指示を与えました。それが、「テモテへの第一の手紙」、「テモテへの第二の手紙」、「テトスへの手紙」の三通の書簡です。
これらの手紙は、教会を指導する立場にあった牧会者に宛てて書かれたことから、「牧会書簡」と呼ばれています。
他のパウロ書簡は「○○人への手紙」という書名になっているのに対し、これら三通の書簡は「○○への手紙」となっています。大半のパウロ書簡は教会の全ての信徒に対する教えであり、教会で朗読されたものですが、牧会書簡はそうではありません。
教会指導者に対する手紙であり、教会で何を教えるべきか、誰を指導者に任命すべきか、また、年齢や性別が異なる信徒にどう接すべきかなど、指示はたいへん細かく具体的です。
なかには、二千年の時を経た今、適用困難な指示もありますが、それはさておき、「特定の指導者への私信」であることを念頭に置いて学ぶ必要はあるでしょう。
なお、さきほど獄中書簡の中でご説明した「ピレモンへの手紙」も個人宛の手紙のひとつです。
皇帝ネロの時代に殉教されたとされるパウロ
さて、数年後にパウロは再び捕えられ、ローマに護送されます。そして、ローマの獄中から彼の最後の手紙となる「テモテへの第二の手紙」を書きました。その傍らにはひとり、ルカだけが残っていたようです(テモテへの第二の手紙 4:11)。
ここには、牧会者としてのテモテに対する励ましと注意のほか、パウロ自身の個人的な依頼が書かれています。手紙の最後の章で、パウロは次のように語っています。
わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。(テモテへの第二の手紙 4:6-8)
その後間もなく、パウロは皇帝ネロの時代に殉教したと伝えられています。
強まる迫害と使徒たちの殉教
ここで、他の使徒たちの殉教についても触れておきましょう。
使徒として初めて殉教したのは、44年、ヘロデ・アグリッパによって殺害された使徒ヨハネの兄、ヤコブでした。
それから後、使徒たちが広く地中海世界に向けてイエスの教えを宣べ伝えていた時期と、ネロがローマ帝国を支配していた時期とはちょうど重なります。
皇帝ネロのキリスト教迫害は64年のローマ大火に端を発しますが、唯一の神を信じ、ローマ皇帝を崇拝しないキリスト教徒は、皇帝にとって権力を脅かす恐るべき存在であり、その後も迫害は、さらに激化していきました。その犠牲となって殉教したのが、使徒ペテロとパウロだと言われています。
パウロの「テモテへの第二の手紙」には次のような言葉も残されています。
ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。この福音のために、わたしは悪者のように苦しめられ、ついに鎖につながれるに至った。しかし、神の言はつながれてはいない。……次の言葉は確実である。「もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、また彼と共に生きるであろう。」(テモテへの第二の手紙 2:8-11)
「へブル人への手紙」
最後に、新約聖書の書簡の中で独特なキリスト論を展開している「へブル人への手紙」をご紹介しましょう。この手紙は、古くはパウロが書いたものだと伝えられてきましたが、現在では著者は不明だと言われています。
また、この手紙が誰に宛てて書かれたものかも明らかではありません。ただ、手紙の内容からギリシヤ語を話し、ユダヤ教からキリスト教に改宗した人々であっただろうと考えられています。
この手紙は、キリストが新しい契約の大祭司であり、キリストの血による贖いによって罪が赦されることを断言しています。
キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救いを与えられるのである。(ヘブル人への手紙 9:28)
次回予告
さて、この講座もいよいよ大詰めを迎えます。最終回となる次回は、ヨハネの手紙とキリストの再臨を描いた「ヨハネの黙示録」を中心にお話しする予定です。どうぞ、ご期待ください。