【聖書講座 #17】福音はヨーロッパへ
この回のポイント
パウロは3回にわたって宣教旅行を行っていますが、今回は第二回と第三回の前半までを学びます。
ここで福音のメッセージはヨーロッパ大陸へ、そして文化の中心地だったアテネへと伝えられます。
しかし、各地に次々と設立された教会では、様々な問題が起こります。そこでパウロは、各地の教会に宛てて手紙を書きました。それらの手紙の一部は、写本を重ねて現在まで保存され、福音書と並んで重要な新約聖書の一部となっています。

第二回宣教旅行のはじまり
前回は、パウロの回心と、彼の宣教でユダヤ人以外の人々、つまり、異邦人に福音の扉が開かれたことをお話ししました。
今回は、パウロの苦難と活躍によって、福音が地中海世界へとさらに広がって行った経緯を、ご一緒に学んでゆきましょう。
エルサレムでの会議を終え、アンテオケに戻ったパウロとバルナバは、主の言葉を告げ知らせていましたが、ある日、パウロはバルナバに次のように言いました。「さあ、前に主の言葉を伝えたすべての町々にいる兄弟たちを、また訪問して、みんながどうしているかを見てこようではないか」。(15:30-36)
こうして、第二回宣教旅行が始まります。
パウロらにテモテも同行する
彼らは二手に分かれ、バルナバはマルコを連れてキプロスへ渡り、パウロはエルサレム教会のシラスを連れてシリヤ州、キリキヤ州を通り、デルベからルステラへと向かいました。
ルステラには、信者のユダヤ婦人を母とし、ギリシヤ人を父とする、テモテという弟子がいました。パウロはテモテも宣教旅行に同行させ、彼らは通る町々で、エルサレムの会議で取り決められた事項を守るようにと人々に伝え、教会は日ごとに成長してゆきました。(使徒行伝 15:39-16:5)
トロアス、そしてマケドニアのピリピへ
それから彼らは、フルギヤ・ガラテヤ地方を通り、ムシヤ地方を通過し、トロアスに下って行きました。その夜、パウロはひとりのマケドニヤ人が「わたしたちを助けてください」と懇願する幻を見ます。
そこで一行は、トロアスから船出してサモトラケ島に直航し、翌日ネアポリスの港に着くと、マケドニヤ州の植民都市、ピリピへと向かいました。
ピリピの獄吏がイエスを信じる
ピリピで彼らは、占いの霊につかれた女奴隷に出会います。彼女は占いをして、その主人たちに利益を得させていました。
パウロが、イエス・キリストの名によって女から霊を追い出したので、主人たちは自分たちが利益を得る望みが絶えたのを見て、パウロとシラスを役人に引き渡し、ふたりはむちで打たれたうえ、投獄されてしまいました。(使徒行伝 16:6-24)
さて、真夜中ごろ、ふたりが神に祈り、さんびを歌い続けていると、突然、大地震が起こり、獄の戸は全部開き、囚人たちの足につけられていた鎖も解けてしまいました。
目をさました獄吏は囚人たちが逃げ出したものと思い、自殺しようとしましたが、パウロに「自害してはいけない。われわれは皆ひとり残らず、ここにいる」と、大声で止められます。
獄吏は、おののきながら、救われるために何をすべきかをパウロとシラスに聞きますと、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」と言われ、家族全員で福音の話を聞いた後、全家族がバプテスマを受け、神を信じる者となったことを心から喜びました。(使徒行伝 16:25-34)
テサロニケからアテネへ
その後、一行はアムピポリスとアポロニヤとを通って、テサロニケに行きました。
パウロはここでもユダヤ人の会堂に入り、三度の安息日にわたり、イエスこそキリストであることを説明し、論証したところ、多くの人々がパウロとシラスに従いました。
その中には、信心深いギリシア人が多数おり、それを妬んだユダヤ人が暴動を起こしたので、信徒たちはパウロとシラスを夜の間にベレヤへ送りだしました。
ところが、テサロニケのユダヤ人たちは、パウロがベレヤで神の言を伝えていると知ると、そこにまで押しかけてきて群衆を扇動し、騒がせたので、パウロはシラスとテモテを残し、アテネへと向かいました。
アレオパゴスの評議所
アテネに到着したパウロは、市内におびただしい数の偶像があるのを見て憤りを覚えます。
パウロがイエスと復活について宣べ伝えていると、哲学者たちはパウロをアレオパゴスの評議所に連れて行き、「君の語っている新しい教がどんなものか、知らせてもらえまいか」と言うので、パウロは、神が天地の主であることから説き起こし、死人のよみがえりについて語りました。
その時、彼に従って信じた者は、アレオパゴスの裁判人の他、幾人かの人々でした。(使徒行伝 17:1-34)
また、パウロは患難の中にあるテサロニケの人々のことを思い、ベレヤからアテネに到着したテモテをテサロニケに派遣しました。(Ⅰテサ3:1-5)
コリントに1年半留まったパウロ
その後、パウロはアテネを去ってアカヤ州の首都コリントへ行き、ポント州出身のユダヤ人アクラと妻のプリスキラの家に住み込んで、安息日ごとに会堂で論じては、ユダヤ人やギリシヤ人の説得に努めました。
シラスとテモテがマケドニヤ州から下ってくると、パウロは宣教に専念し、コリントに一年半留まり、神の言を教え続けます。(使徒行伝 18:1-11)
「テサロニケ人への手紙」
また、パウロはテモテからテサロニケの報告を受け、テサロニケの信徒たちに励ましと感謝を伝えるために手紙を送りました。それが、「テサロニケ人への第一の手紙」です。
聖書には、「テサロニケ人への第二の手紙」も残されており、第一、第二の手紙ともに、キリストの再臨、すなわち、主が再び地上に来られることを力強く説いています。
第二回宣教旅行の終わり
ところで、コリントでもユダヤ人がパウロを襲い、法廷に引っぱって行き、人々をそそのかしていると訴える事件が起こりました。
その幾日か後、パウロはプリスキラとアクラとともにシリヤへ向け、出帆し、途中、エペソにふたりを残し、カイザリヤに上陸後、エルサレムに上り、教会に挨拶してから、アンテオケに下って行きました。
ここで、第二回宣教旅行は終わります。その後、パウロはアンテオケにしばらく滞在し、また旅に出ます。第三回宣教旅行の始まりです。(使徒行伝 18:12-23)
第三回宣教旅行のはじまり
パウロは、まず、ガラテヤやフルギヤの地方を巡回し、すべての弟子たちを力づけました。
さて、エペソではアレクサンドリア生れで、聖書に精通し、雄弁なアポロというユダヤ人が会堂で大胆に語り始めていました。
しかし、アポロはヨハネのバプテスマのことしか知らなかったため、プリスキラとアクラが神の道についてさらに詳しく説明しました。
その後、アポロはアカヤ州に渡り、聖書に基づいてイエスがキリストであることを公然と立証しました。(使徒行伝 18:24-28)
エペソで福音を伝える
アポロがコリントにいた時、パウロは内陸の地方を通ってエペソに下ってきました。
そこで、ヨハネのバプテスマしか知らない人たちがいたため、主イエスの名によるバプテスマを授けると、彼らに聖霊がくだりました。その人たちはみんなで12人ほどでした。
それから、パウロはエペソの会堂で3か月の間、神の国について論じ、反対者の妨害を受けます。
そこで、パウロたちはツラノという人の講堂を借りて2年の間、毎日論じ続け、ユダヤ人もギリシヤ人も皆、主の言を聞くことになりました。(使徒行伝 19:1-10)
これらの事があった後、パウロはマケドニヤ州、アカヤ州を通ってエルサレムへ行く決心をし、さらにローマをも見なければならないと語りました。
そこで、テモテとエラストのふたりをマケドニヤ州に送り出しましたが、パウロ自身は、エペソに止まっていました。
エペソが大混乱に
その頃、エペソではデメテリオという銀細工人がアルテミス神殿の模型を造り、職人たちに利益を得させていました。
この男が職人たちを集め、パウロが手で造られたものは神ではない、などと言って、大女神アルテミスの神殿をないがしろにするばかりか、威光さえも失われてしまいそうである、とけしかけたので、人々は怒りに燃え、町中が大混乱に陥ります。
パウロの同行者ふたりも捕えられ、群衆は野外劇場になだれ込みました。劇場の中での集会は収拾がつかなくなり、市の書記役が人々を押し静め、集会を解散させるという事件が起きる状況にまで発展していました。(使徒行伝 19:21-41)
「コリント人への手紙」
さて、パウロがエペソ滞在中に書いたと伝えられているのが「コリント人への第一の手紙」です。
第二回宣教旅行の際、パウロがコリントを訪問後、教会は党派争いが生じたり、周囲の異教の影響を受けたり、多くの問題を抱えるようになりました。そこでパウロは、コリントの教会に宛てて手紙を書き、互いに愛し合うようにと教えました。
聖書には「コリント人への第二の手紙」も残されています。
次回予告
今回は、宣教の困難さを如実に示す事柄をお話ししましたが、次回は、パウロのエルサレムへの旅に続き、裁判とローマへの護送について、ご一緒に学んでゆきましょう。