【サムライ #12】福沢諭吉
この記事のポイント
・下級士族の子弟 福沢諭吉と聖書
・子どもに教えた「ごっど」の存在
・次の世代で花開いた諭吉の聖書教育
イントロダクション
慶應義塾大学の創設者として、また1万円札に肖像が印刷されていることで有名な福沢諭吉。キリスト教に批判的な発言もありましたが、聖書の教えに深く影響を受けていました。今回はそんな諭吉と聖書・キリスト教の関係についてご紹介してまいります。
ポイント1:下級士族の子弟 啓蒙の代表的人物に
福沢諭吉は豊前の国、中津の下級士族の子弟として生まれました。青年期、ペリー来航を機に、長崎、大坂で蘭学を学び、その後、横浜を訪問して英学に転向します。語学力を買われた諭吉は幕府に雇われ、ヨーロッパ各国を訪問することになりました。
幕末日本において実際に欧米を見聞した最初の知識人の一人となった諭吉は啓蒙的文書を書き始めたのです。『学問のすゝめ』では聖書の造物主への直接的な言及があります。
人の生まるるは天の然らしむる所にて、人力にあらず。この人々互ひに相敬愛して、おのおのその職分を尽くし、互ひに相 妨ぐることなき所以は、もと同類の人間にして、共に一天を与にし、共に与に天地の間の造物なればなり。(『福沢諭吉全集』第三巻、岩波書店、1969年、37頁。)
人は皆、自分の力ではなく、神の力によって生まれたのであるから、人々は平等であり、愛し合うべきだと諭吉は考えたのです。
ポイント2:子どもに教えた「ごっど」の存在
『学問のすゝめ』が刊行される前年の1871年、諭吉が慶應義塾を設立し、教育者としての道を歩み始めていた頃、彼は子どもたちの道徳教育のために『ひびのをしへ(日々の教え)』を書いたされています。その内容には、聖書の教えの影響が見られます。
てんとうさまをおそれ、これをうやまい、そのこころにしたがふべし。ただしここにいふてんとうさまとは、にちりんのことにあらず、西洋のことばにてごっど(God:聖書の神)ゝいひ、にほんのことばにほんやくすれば、ざうぶつしゃ(造物者)といふものなり。(白井堯子『福沢諭吉と宣教師たち:知られざる明治期の日英関係』未来社)
ポイント3:花開いた聖書教育
諭吉は子どもたちに、神は天地万物を創造した造物主であり、人はその神のみこころに従って生きるべき存在だと教えました。
「世のなかには父母ほどよきものはなし。……父母のいきしにはごっどのこころにあり、ごっどは父母をこしらえ、ごっどは父母をいかし、また父母をしなせることもあるべし。てんちばんぶつなにもかも、ごっどのつくらざるものなし。こどものときよりごっどのありがたきをしり、ごっどのこころにしたがふべきものなり。」(白井堯子『福沢諭吉と宣教師たち:知られざる明治期の日英関係』未来社)
諭吉自身はクリスチャンになりませんでしたが、諭吉の二人の姉はキリスト教徒でした。そして、『ひびのをしへ』を学んだ長男の一太郎も後にアメリカのキリスト教主義大学に留学し、洗礼を受けました。また、三女や四女もクリスチャンになり、四女は東京YWCAの会長を20年にわたり努めています。クリスチャンでなかった諭吉による聖書教育は、こうして子どもたちの時代に花を開かせたのです。
まとめ & 次回予告
以上、福沢諭吉と聖書の関係について、3つのポイントをご紹介しました。諭吉は激動の時代において、下級武士の子弟でありながら語学力を買われ、幕末に西欧を訪れた最初の知識人の一人となりました。そして、聖書の造物主を知り、子どもたちに人は神のみこころに従って生きるべきだと教育しました。この聖書教育は子どもたちの世代で花開きました。
次回は、坂本龍馬の師である勝海舟と聖書の関係について、迫ってまいります。どうぞお楽しみに!