【サムライ #09】少年よ大志を抱け!クラーク博士
この記事のポイント
・キリスト教はクラーク家の宗教
・教育観の根底に大学時代の回心?
・「祈り」なくして「大志」なし!?
イントロダクション
「少年よ大志を抱け」(Boys be Ambitious)。このよく知られた名言はクラーク博士が現在の北海道大学の前身である札幌農学校の学生に残した言葉です。札幌農学校に集まってきた者の多くは、日本の将来の担い手を目指す武士階級出身の若者たちでした。
今回は、そんなクラーク博士の生い立ちから、彼が残した名言の真意に、迫ってまいります。
ポイント1:家の宗教として親しんだキリスト教
1826年、クラークはアメリカのマサチューセッツ州のクリスチャンの家庭に生まれました。彼は15歳(1841年)でウィリストン神学校(Wiliston Seminary)に入学し、聖書を学んでいます。神学校を卒業後は、新島襄も学んだアマースト大学に入学しました。この大学は、キリスト教の覚醒運動を背景に設立された学校でした。
クラークは生まれてすぐに幼児洗礼も受けており、彼にとってキリスト教は、いわば家の宗教でした。しかし、彼はアマースト大学において、個人的回心を体験することになります。
ポイント2:教育観の基礎になった!? 回心の経験
回心体験はクラークの人生に大きな影響を与えました。クラークは母への手紙の中で、こう述べています。
長く正しい道を踏み外していた息子へのあなたの祈りは、私が謙虚に望み、信じた時に、受け入れられました。私は深く確信できるよう熱心に祈り、『神よ、我は信ずる、汝我の信仰なきを助けたまえ』と叫びました。
クラークは、神を信頼し、神に助けを求めることで、強くなれると悟ったのです。
その後、彼はドイツのゲッティンゲン大学に留学しますが、そこで、キリスト教と学問の乖離を目の当たりにし、失望します。アマースト大学の教授らは宗教と科学を統一的に捉え、科学を通して、天地の造り主なる神の計画を見せることを目指していました。その教えを受けていたクラークは、信仰に基づく全人教育の必然性を確信することになります。
ポイント3:祈りがあってこそ 大志が抱ける!?
ドイツから帰国したクラークは、アマースト大学教授、マサチューセッツ州立農科大学の校長を歴任し、1876年、50歳にして「お雇い外国人」として札幌農学校に赴任しました。クラークは牧師や宣教師ではありませんでしたが、札幌農学校では学問を教えるだけでなく、信仰を核とする「全人教育」を目指しました。
実は「少年よ大志を抱け」という惜別の言葉の前に、彼は「元気で常に祈ることを忘れないように」と語っています。この時、クラークの脳裏には大学での回心体験が浮かんでいたのかもしれません。彼は晩年、死の床にあって、日本の青年にキリスト教を伝えたことが唯一の誇りだと語っています。
まとめ & 次回予告
以上、クラークの名言の背景には、回心の経験があったことをご紹介しました。
・家の宗教として親しんだキリスト教
・教育観の基礎になった!? 回心の経験
・祈りがあってこそ 大志が抱ける!?
クリスチャンの家庭に育ったクラークは、大学で、神を信頼し、すべて明け渡すことによって得られる心の平安を体験しました。そして、札幌農学校でも信仰を核とする「全人教育」を展開したのです。クラークの札幌滞在はわずか8ヶ月程度でしたが、彼は内村鑑三や新渡戸稲造など、近代日本の偉人に大きな影響を与えました。
次回は、クラークの「西洋的キリスト教」を批判的に受容していった内村鑑三に、迫ってまいります。日本古来の神仏を敬ってきた内村にとって、キリスト教の教えは非寛容なものに映りました。しかし、その内村の思いは、やがて、日本とキリストのいずれをも愛す思想へと収斂されていくのです。