【サムライ #08】キリシタンを取り締まっていた原胤昭の回心

この記事のポイント

・迫害する側の心を掴んだ聖書!
・基督に命を捧げた先祖の存在
・元勤め先に投獄され、決めた覚悟

イントロダクション

キリスト教が禁教だった江戸時代、クリスチャンは「耶蘇(ヤソ)」と呼ばれていました。今回は、その「ヤソ」を取り締まる役人だった原胤昭(たねあき)が回心した経緯についてご紹介してまいります。

ポイント1:取締まる立場を活用した与力!?

原胤昭(はら たねあき)は1853年、黒船が来航した年に、江戸町奉行 与力(よりき)の佐久間健三郎の三男として生まれました。胤昭は13歳で「石川島人足寄場見回与力」(いしかわじま にんそくよせば)を継ぎました。ちなみに、「与力」とは武士の身分で、犯罪者の摘発に奔走する、現在でいう警察官のような役割です。

胤昭が与力として働いていた時代、江戸の町のあちこちでキリシタン禁制の高札(こうさつ)が掲げられており、キリスト教は国禁でした。しかし、胤昭はキリシタン、ヤソを取り締まる立場にあったにもかかわらず、その立場を利用して、アメリカ人宣教師が書いたキリスト教書を借り受け、熟読したりしていました。彼が聖書に強い関心を持ったのは、原家の抱える秘密と大きな関係があったのでしょう。

ポイント2:原家の秘密…祖先は殉教者!

原家の先祖には殉教したキリシタン武士・原胤信(たねのぶ)がいます。胤信は、下総の臼井城に生まれ、1607年から駿府で家康のそばに仕えていました。しかし、江戸幕府は1612年以降、本格的なキリシタン弾圧を開始し、キリスト教を信じる旗本にも棄教が命じられました。

1600年に受洗していた胤信は棄教を拒み、家康は激怒。胤信の額に十字の烙印を押し、手足の指全てを切断させ、足の筋を切らせます。なんとか命は取り留めた胤信ですが、密告によって捕らえられ、1623年に火刑に処せられました。死ぬまで宣教を行った胤信は、死の直前に、こう述べたと伝えられています。

私が極端な責苦にも耐へてきたのは唯一救済に導いてくれるキリシタン宗の真理を証拠だてんがためである。……私のこの切られた手足が何よりの証拠である。 私は私の贖い主であり、 また救い主であらせられるイエズス・キリスト様の御為に苦しみを受けていま命を捨てるのである。 イエズス・キリスト様は私には永遠の報酬に在すであろう。(『日本切支丹宗門史』)

ポイント3:投獄された元与力が決めた覚悟

胤昭が洗礼を受けたのは1874年のことでした。明治という新しい時代にあって、さらなる学問を身につける必要性を感じた彼は積極的に外国人宣教師に近づき、聖書の核心を掴もうとしました。胤昭は1874年に宣教師に信仰を問われ、このように答え、洗礼を受けました。「大事のためなら腹を切り、首をかけるのは本懐である。」。キリシタン禁制の高札は1873年には撤去されていましたが、聖書を手にするには、まだ注意深く行動する必要があったのです。

1883年、胤昭は政治犯として逮捕され、かつて自らが見回りを務めていた石川島人足寄場が改められた石川島刑務所に投獄されました。その後、胤昭は生涯をかけて出獄人保護や教誨師(受刑者に道徳を教え改心に導く役割)として囚人の心に寄り添う働きをし、歴史に名を留めることになったのです。

まとめ & 次回予告

以上、「ヤソ」を取り締まる役人だった原胤昭の回心について、3つのポイントをご紹介しました。

・取締まる立場を活用した与力!?
・原家の秘密…祖先は殉教者!
・投獄された元与力が決めた覚悟

彼の先祖、キリシタン武士・原胤信は、文字通り、命をかけて信仰を全うした人物でしたが、胤昭も、与力というヤソを取締まる立場を利用し、聖書の教えに触れ、後に命をかけた信仰を誓い、生涯をかけて教誨師として囚人の心に寄り添いました。

次回は「少年よ大志を抱け」という言葉で有名なクラーク博士と、彼の教え子の姿に、迫ってまいります。どうぞお楽しみに!

SKKの聖書講座のご案内

SKKでは聖書講座を開講しております。より詳しい内容も学んでいただけますので、お気軽にお問い合わせください。

 ●  お問合せフォーム

 ●  LINE公式アカウント

 ●  メール

受講方法や開講日時等についてご案内させていただきます。

ページトップへ