【サムライ #07】山本八重の葛藤

この記事のポイント

・父と弟を奪った戊辰戦争
・敵を許す“信者の心”
・“心の歪み”は聖書で正せ

イントロダクション

大政奉還後、明治維新となっても各地には旧幕府派が残存していました。それらに対する新政府軍の掃討作戦が戊辰戦争です。会津は新政府軍の洋式砲の圧倒的な威力の前に、一ヶ月の籠城戦の後、降伏しました。

今回は、この戦いで活躍した女性、山本八重と聖書の関係についてご紹介してまいります。

ポイント1:父と弟の仇を取れ “武士の心”

山本八重は会津藩の砲術師範の家系に生まれ、兄から近代兵器である洋式銃の扱いを学んで白虎隊の少年を教えていました。彼女は、戊辰戦争の際、男装、断髪で七連発のスペンサー銃を持って新政府軍に勇猛果敢に立ち向かいました 。

しかし、残念なことに会津藩はこの戦いにやぶれ、兵士の約57%にあたる2557人を失ったのです。

彼女の弟・三郎もこの戦いで命を落としました。八重は「弟の敵を取らねばならぬ、私は即ち三郎だ」 との思いから、弟の形見の着物をきて、男装して戦ったのでした。さらに、八重は、この戦争で父の権八も奪いました。

ポイント2:八重の葛藤 敵を赦す“信者の心”

戊辰戦争の6年後、1875年、八重の兄、山本覚馬(かくま)は、キリスト教信仰に目覚め、新島襄とともに京都初のキリスト教主義学校である同志社の開業願いを京都府に提出しました。同じ年に八重は新島と婚約し、翌年ふたりは結婚しました。

八重も結婚式の前日に受洗しましたが、彼女の中には「武士の心」と「信者の心」の葛藤があったようです。ここでいう「武士の心」とは、親兄弟を殺されるようなことがあれば決して許さず反撃するという姿勢です。一方、「信者の心」とは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)という許しの姿勢です 。

1885年、結婚から9年目、襄は「真の信者の心をもて」と八重を諭しています。八重は同志社の学生などを招いて、会津独自のかるた会を定期的に行なっていましたが、戊辰戦争の敵であった薩摩出身の学生は招きませんでした 。父や弟の命を奪い、故郷を苦しめた人々と一緒に、会津ゆかりのなつかしいかるたを楽しむ事は難しかったのです。

ポイント3:“髪容の歪み”は鏡で “心の歪み”は聖書で正せ

新島襄が亡くなる直前、京都で留守を預かっていた八重は薩摩の人を自宅でのかるた会に初めて招いています。それは、八重の「信者の心」の成長を示す象徴的な出来事でした 。八重と襄の結婚生活は14年間でしたが、1890年に襄を失った後、八重は「武士の心」を大切にしながらも、「信者の心」も強めていったようです。彼女はその後、看護師としても活躍し、看護師の地位向上に努めました。

1928年、晩年の八重は講演の中で、幼い頃に教えられた「日新館童子訓」が自分の「最も根本の精神」だと語っています。それは会津藩主の松平容頌(かたのぶ 1744-1805)が児童のために編集した教科書で、『論語』など中国の古典の金言と、日本の偉人の逸話を収録したものでした。

しかし、八重は「心の歪み」は「聖書、聖人の心に照らした時に、初めて直される」とも述べています 。彼女の中では「武士の心」と「信者の心」が一つになっていたのです。

まとめ & 次回予告

以上、山本八重と聖書の関わりについて、3つのポイントをご紹介しました。

・父と弟の仇を取れ という “武士の心”
・八重の葛藤:敵を許す“信者の心”
・“髪容の歪み”は鏡で、“心の歪み”は聖書で正せ

八重は戊辰戦争で活躍しましたが、父と弟を失いました。そして、洗礼を受けた後も、この戦争で敵対した薩摩藩出身の学生に対する心のしこりが残っていましたが、イエスの心に照らした「信者の心」を持つことで、「武士の心」だけでは克服できなかった心の歪みを正すことができました。

キリスト教が禁教だった江戸時代、クリスチャンは「耶蘇(ヤソ)」と呼ばれていました。次回は、その「ヤソ」を取り締まる役人だった原胤昭が回心した経緯に、迫ってまいります。どうぞお楽しみに!

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