【キリスト教史講座 #02】西欧キリスト教の歴史(II)

この回のポイント

1. 大シスマ-東西教会の分裂
2. ヨーロッパの支配者が変わる中で
3. 教会の権威は頂点から下り坂へ、はじまった宗教改革に向けた動き

はじめに

前回は民衆や帝国から迫害されたキリスト教が、ローマ帝国の庇護のもと成長し、帝国没落後もゲルマン人への宣教によって生き延びたことを学びました。

今回は東西教会の対立と分裂から15世紀の宗教改革前夜までの西方教会の歴史を解説します。

1. 大シスマ-東西教会の分裂

この時期最大の事件は、約千年にわたって対立しながらも一致を保って来た、東西教会の分裂、「大シスマ」です。

ローマ帝国は395年に東西に分裂し、西ローマ帝国は百年足らずで滅亡しました。東ローマ帝国は「ビザンツ帝国」と呼ばれるようになり、しばらく存続します。帝国の分裂後、教会も東方のギリシャ語圏と西方のラテン語圏に分離し、それぞれ異なる「思想」や「神学」を発展させていきました。

そして、政治的な対抗意識やローマ教皇の権威の拡大、礼拝や聖礼典の違い、東西で合意されたニカイア信条への文の付け足し問題など、様々な論争が起こり、1054年には東方教会と西方教会が互いに相手を破門する「東西教会の分裂」つまり「大シスマ」が起こるのです。その後、しばらく西方教会は「カトリック教会」、東方教会は「正教会」として歩んでいきます。

東方教会の歩みについては第5回で学ぶことにし、第2~4回は西方教会を中心に学びます。

2. ヨーロッパの支配者が変わる中で

中世のカトリック教会は、ヨーロッパの支配者が入れ替わる中で、フランク王国や神聖ローマ帝国などの政治権力と結びつき、影響力を高めました。ただ、世俗の権力と結びついた教会では腐敗が目立つようになり、教会改革の動きも出てきます。

 ●  修道院の発展と、改革の動き

中世カトリック世界で重大な役割を担ったのが修道院です。修道院は封建領主や騎士から土地の寄進を受けて建設され、騎士たちの暴力の罪を償う祈りを献げました。

ところが、封建領主たちが修道院への支配を強めようとすると、修道院はこれに対抗し、複数の修道院の集まりである「修道会」を結成しました。代表的な修道会に、クリュニー会とシトー会があります。

また、1075年には、教皇グレゴリウス7世が聖職売買と性的問題が蔓延していたカトリック教会の状況を問題視し、改革を始めました。そして、神聖ローマ帝国の皇帝ハインリヒ4世と激しく対立します。

 ●  十字軍

教皇ウルバヌス2世は、イスラーム勢力の支配下にあった聖地を回復するための「十字軍」運動を提唱します。以降1270年まで、全7回(数え方によっては8回)に及ぶ十字軍遠征が行われました。

第1回の十字軍ではエルサレムを奪回し教皇の権威が高まりましたが、それ以降は失敗が続き、教皇の権力も衰退していきました。

また、十字軍はユダヤ人など異教徒を虐殺したため、現在に至るまで深い禍根を残しています。

3. 教会の権威は頂点から下り坂へ

十字軍の失敗や伝染病などにより、中世末期になると、カトリック教会の勢いにも、陰りが見え始めます。そして、神秘主義運動などが盛んになりました。さらに、教会改革を求める声も高まっていきます。

 ●  異端的な活動と正統信仰の強化

11世紀頃まで、修道院は西欧の知的世界をリードしていましたが、12世紀に入り、司教座参事会や官僚、宮廷がその役割を担うようになります。その一方で、教会組織に守られた安定した生活に飽き足らず、隠遁生活を送って、純粋な信仰を守ろうとする人々も現れました。彼らを「隠修士 hermit」と呼びます。

また、同時期に深刻化したのが異端問題です。彼らは新しい考えを提唱し、都市のエリート市民を中心に支持を拡大し、社会運動を起こしました。そのため、こうした異端者らに対抗して生まれたフランシスコ会やドミニコ会などの「托鉢修道会」は、俗世から離れるのではなく、むしろ都市の人々に積極的に宣教し、影響力を発揮しました。

 ●  教皇の権威、最高潮から失墜へ

ローマ教皇の権威は13世紀のインノケンティウス3世の時代に最高潮に達します。しかし、13世紀末から、フランスを支配したカペー朝との対立が強まり、ついに、ローマとフランスのアヴィニョンに別の教皇が立てられる事態となり(1377-1417)、教皇は権威を失っていきます。

 

 ●  高揚した民衆の信仰心

この時期の教会に大きな影響を与えたのが、14世紀中頃にヨーロッパ全域を襲ったペストの大流行でした。人口の3割程度が死亡、労働力は不足し、経済は衰退しました。また、死が日常的なものとなったことで、死と煉獄の思想も発展しました。教会がペスト流行に対して無力であったことで、新たな信仰運動も起こります。

死への恐れを克服するため、自らを鞭で痛めつけることで罪を悔い改めようとする「鞭打ち苦行者」の運動が拡大しました。彼らは教会における罪の告白と罪のゆるしを軽視したため、教会は彼らを激しく弾圧しました。

また、悔い改めを重視する神秘主義運動も盛んになりました。運動は、オランダやフランドルといった低地地方からドイツにおいて拡大し、共同生活兄弟団という信仰共同体も設立されます。

 ●  宗教改革の先駆者

14から15世紀になると、教会改革を求める動きが活発化します。

たとえばイングランドの神学者ジョン・ウィクリフは、オックスフォードの神学教授を勤める一方で「化体説」――つまり、礼拝のミサにおいて聖餐のパンとぶどう酒が実際にキリストの肉と血に変化するという説――を否定しました。また、聖書主義を掲げてラテン語聖書を英訳するなど、教会改革を試みました。ウィクリフは支持を拡大しましたが、1381年に農民一揆が起こると、ウィクリフはその扇動者と見做されて大学を去ります。

ウィクリフの教説を受け入れた者の一人がプラハ大学学長のヤン・フスでした。フスもカトリック教会への批判を公然と行いました。

二人は宗教改革の先駆者として活躍しましたが、1414年のコンスタンツ公会議において、フスは火刑に処され、既に死去していたウィクリフも異端として断罪されます。しかし、彼らの死後、教会改革への要求は、むしろ高まっていきました。

まとめ

・西ヨーロッパではグレゴリウス改革などの結果、13世紀に教皇と教会の権威が最高潮に達します。
・しかし、教皇権の混乱や、ペストの流行によって教会の権威は失墜します。
・そして、14~15世紀にはウィクリフやフスなど宗教改革の先駆者が登場しました。

次回は宗教改革からアメリカ大陸における大覚醒までの近世キリスト教の歴史をご一緒に学びましょう!

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