【キリスト教史講座 #01】西欧キリスト教の歴史(I)古代

この回のポイント

1. エルサレムで誕生した教会がローマへ
2. ローマ帝国の混乱と、大迫害の時代
3. 国教となり、大きく発展したキリスト教

はじめに

前回は、キリスト教の歴史を読み解く4つの視点をご紹介しました。

第1回から第4回までは、長きにわたりキリスト教文化の中心としての役割を果たしてきたヨーロッパを中心に、キリスト教の歴史的歩みを振り返ります。

今回はイエスの時代からローマ帝国分裂後の5世紀末までのキリスト教の歴史を学びましょう。

1. エルサレムで誕生した教会がローマへ

イエスがガリラヤとエルサレムで語った福音のメッセージは、使徒たちによってローマ帝国の首都、ローマへと伝えられます。

 ●  迫害の中で誕生した教会

紀元前37年から紀元1世紀末まで、ユダヤはローマ帝国の属州であり、ヘロデ朝の支配下にありました。そこにイエスが登場します。敬虔なユダヤ教徒として、イエスはガリラヤの民衆に福音を伝えました。しかし当時のユダヤ教指導者は、自分たちを公然と批判するイエスの運動を危険視し、ローマ総督を巻き込んで彼を十字架につけて殺してしまいます。

イエスの死後、彼の復活を信じるユダヤ人がエルサレムに集まります。彼らは財産を共有して共同生活を送るようになり、教会が始まりました。これを「原始キリスト教」と言います。彼らは自分たちがユダヤ教徒だと考えていましたが、主流派のユダヤ教徒からは異端と見られ、迫害されました。そして、教会の指導者の一人、ステファノ(画面に使徒6:5の7人の名前と「執事」という役職を表示)が殉教したあと、原始キリスト教の指導者たちはエルサレムを追われました。

一方で、教会の人々を激しく迫害していたユダヤ人パウロは、熱心な伝道者となり、小アジアを中心に三度の伝道旅行を行います。彼は、58年頃エルサレムで捕えられ、ローマに護送されました。

 ●  ローマ帝国が教会の迫害者に

当初、キリスト教徒への迫害は主にユダヤ教徒によるもので、ローマ帝国は、むしろユダヤ教徒の暴動を抑制しようとしていたことが、聖書の記述からもうかがえます。

しかし、64年にローマの大火が起こると、皇帝ネロは、キリスト教徒を放火犯にしたてあげ、彼らを迫害します。このときに、ペテロとパウロも処刑されたと言われています。ただ、この時期の迫害は散発的なもので、主に都市の民衆によるものでした。

2. ローマ帝国の混乱と、大迫害の時代

教会はローマ帝国内で広がって行き、多くの信徒が集まりますが、彼らは何度にもわたる迫害に苦しみます。

 ●  社会が混乱する中でも成長した教会

192年末になると、ローマ帝国の黄金時代は終焉を迎え、帝国は内乱状態となり、不安定な時代が続きました。この時代、民衆によるキリスト教の迫害は減り、目まぐるしく交代する皇帝のキリスト教政策によって、迫害か寛容かが決められました。

その間にキリスト教は成長を遂げますが、同時に正統/異端の対立や教会の世俗化が目立ち始めます。教会会議が度々開催され、教義の一致が図られました。また、信徒の十分の一献金や聖職者への手当といった慣習が一般化し、教会の経済基盤が固まったのもこの頃です。

 ●  3世紀末に起こった最悪の迫害

284年に即位し、帝国東方の統治を担ったディオクレティアヌス帝は、皇帝権力を強化するため、民衆にローマの伝統宗教への信仰を強制しました。唯一の神のみを礼拝するキリスト教徒は、皇帝やローマの神々などの礼拝を拒み、またローマ軍の兵士になることを拒否するなどの問題があったためです。そこで、彼らは帝国総人口の約1割を占めるまでに拡大していたキリスト教徒に対する迫害を帝国全土で開始しました。

会堂は破壊され、土地も没収されます。信徒らへの拷問や処刑も行われました。信徒らのうち、迫害を逃れ、隠れて信仰を守った者が居た一方、殉教する者も多く出ました。殉教はキリストへの信仰を守り通し、人々にキリストを伝える最高の場と考えられていたからです。

3. 国教となり、大きく発展したキリスト教

ローマ帝国はキリスト教を国教とします。その後、ローマ帝国が東西に分裂すると、西ローマ帝国はゲルマン人に滅ぼされますが、ゲルマン人もキリスト教徒となりキリスト教は生き延びます。

 ●  コンスタンティヌス帝による方針転換

305年にディオクレティアヌス帝が退位すると、迫害は下火になります。そして、次のコンスタンティヌス帝は313年にミラノ勅令と呼ばれるキリスト教寛容令を公布し、迫害は正式に終りを告げます。

コンスタンティヌス帝はローマ帝国の分裂、混乱を克服し、キリスト教を積極的に支持しました。彼は、教義論争による教会の分裂を回避するために、キリスト教の一致も主導しました。325年のニカイア公会議では、聖書の神は、父・子・聖霊の「三位一体」だとするアタナシウス派と、これに反対するアリウス派の激しい論争が展開されます。そして、381年のコンスタンティノポリス公会議において、アリウス派は異端とされ、392年、キリスト教はテオドシウス帝によってローマの国教とされました。

 ●  ローマを滅ぼしたゲルマン人も信徒に

しかし、その3年後の395年、ローマ帝国は東西に分裂してしまいます。それに伴い、ローマを中心とする西方教会とコンスタンティノポリスを中心とする東方教会の分断が進みます。

この時期、431年にはエフェソス公会議、451年にはカルケドン公会議が開催され、教義の統一が図られますが、それらの会議で異端とされた教会も、中東などの各地で発展して行きます。

ローマを中心とする西ローマ帝国は、5世紀初頭には崩壊状態となり、476年、北方から移動してきたゲルマン人たちによって滅ぼされました。時代の担い手はローマ帝国から、ゲルマン人へと変化したのです。しかし、キリスト教は早くからゲルマン人に宣教していたため、ローマ帝国没落後もなお生き残れました。

とはいえ、当時ゲルマン人の多くは異端のアリウス派を信じていたため、教会の統一性は危うくなります。しかし、正統であるアタナシウス派のフランク人クローヴィスがローマ系住民と西方教会の支持を得てゲルマン諸族を征服し、西欧地域の安定を実現したことで、正統のキリスト教はその地位を保つことができたのです。

まとめ

以上、イエスの登場から5世紀末までの古代キリスト教の歴史を学びました。

・原始キリスト教はユダヤ教の中から始まりましたが、主流派のユダヤ教から迫害を受けます。そして福音はローマ帝国内の様々な民族に伝えられます。
・しかし、ローマ帝国でも、キリスト教は何度も迫害を受けました。
・ところが、コンスタンティヌス帝以降、キリスト教はローマ帝国やゲルマン人の庇護のもとで成長していくことになりました。

次回は宗教改革前夜までの中世のキリスト教史を解説します。どうぞお楽しみに!

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