【聖書講座 #09】バビロン捕囚
この回のポイント
世界最強の神に守られているはずの「契約の民」が他国に捕囚される、という苦難の歴史は、聖書の物語のハイライトのひとつです。
エルサレム陥落の時代を生きたエレミヤは、イスラエルの敗北を預言して人々の怒りを買いましたが、約束の地への帰還も預言しました。
また彼は、神がイスラエルと「新しい契約」を立てるという、旧約聖書中で最重要とも言える預言も残しています。
ユダ王国末期に活躍した預言者、エレミヤ
前回は、南のユダ王国の歴史と預言者たちについて学びました。今回は、ユダ王国の滅亡とバビロン捕囚について学びます。
最初の登場人物は、ユダ王国末期に活躍した預言者、エレミヤです。彼は、自身の若き日に預言者になるようにと、神の召命を受けました(エレミヤ書1:4-9)。
若者であったエレミヤが、預言者になることを躊躇したのも無理はありません。預言者は、ともすると、人々に対して受け入れ難いことを伝えなければならなかったため、歓迎される存在ではなかったからです。
バビロンに負けると預言したエレミヤ
エレミヤは夫婦の関係にたとえて、神の愛と怒りを語りました。夫は神、妻はイスラエル民族です。神はイスラエルを愛しているのに、イスラエルは他の男、他の神々を礼拝している、とエレミヤは非難します。
他の預言者たちは「だから悔改めて神のもとに帰りなさい」と教えたのですが、エレミヤは違いました。
「神の罰は逃れられない。おとなしく罰を受ける以外にない」と説いたのです。エルサレムがバビロンの軍隊、カルデヤ人たちの包囲攻撃を受け、人々が必死に戦っている時、エレミヤは人々に言いました。
「主はこう言われる、この町にとどまる者は、つるぎや、ききんや、疫病で死ぬ。しかし出てカルデヤびとにくだる者は死を免れる。……主はこう言われる、この町は必ずバビロンの王の軍勢の手に渡される。彼はこれを取る」。 (エレミヤ 38:2-3)
怒った人々はエレミヤを井戸の中に投げ込みますが、彼は親切な人によって命を救われました。
バビロン捕囚とエレミヤの残した預言
そして、BC587年、ついにエルサレムは陥落し、ソロモン王の建てた宮(第一神殿)は破壊され、エレミヤの言葉通りに、人々はバビロンに連れて行かれます。いわゆる「バビロン捕囚」です。
これは悲しいことでしたが、それは物語の終わりではありませんでした。その時、エレミヤは重要な預言を残したのです。
この地はみな滅ぼされて荒れ地となる。そしてその国々は七十年の間バビロンの王に仕える。主は言われる、七十年の終った後に、わたしはバビロンの王と、その民と、カルデヤびとの地を、その罪のために罰し、永遠の荒れ地とする。(エレミヤ 25:11 )
つまり、バビロンに連行されても、70年後にはエルサレム、あるいはその別名である「シオン」に帰還できると、エレミヤは教えたのです。
また、神とイスラエルの間に「新しい契約」が立てられることも、彼は預言しました。新しい契約、それは、新約聖書のメッセージのことだと考えられています。(エレミヤ31:31)
人々の嘆きと悲しみ
バビロンに連れて行かれた人々は、嘆き悲しみました(詩篇137篇にも、歌も残されています)。
「エレミヤ書」の次には、バビロンで奴隷となった人々の苦しみと嘆きを歌う「哀歌」という書がありますが、これもまた、エレミヤの作だと言われています。
「エゼキエル書」
「哀歌」の次にある「エゼキエル書」も同じ時期にバビロンで書かれました。どうして神は、約束の民を遠い異国に送られたのか。その問いに、エゼキエルは36~39章で答えています。
それは世界中に散らされたイスラエルの民が、もう一度、約束の地に帰されるのを見て、諸国の人々がイスラエルの神を知るためだ、というのです。それは遠大な神のご計画でした。
実際、狭いカナンの地、イスラエルの国内だけで暮らしていたイスラエル人たちは、この頃から世界各地に住んで商業などを行うようになり、「ユダ王国の人々」という意味で「ユダヤ人」と呼ばれるようになっていくのです。
「ダニエル書」
その次の「ダニエル書」もまた、同時期にバビロンで書かれたとされる書です。
捕囚の暮らしが長くなるにつれて、人々は新たな日常に慣れ、中には政府の要職に就く人々も現れます。ダニエルもそのひとりで、バビロンの政府で高い地位につくと同時に、預言者としても活動しました。
彼と仲間のユダヤ人たちは、王の命令に背いてイスラエルの神を礼拝したため、反対者に訴えられて燃える炉の中や、ライオンの穴に投げ込まれますが、神によって奇跡的に助けられるのです。
また、ダニエル書とエゼキエル書の一部は、「黙示文学」と呼ばれる独特の形式で書かれ、夢や幻のことが書き記され、普通には理解しづらいものがあります。こうした内容の書は他に、旧約聖書ではゼカリヤ書、新約聖書ではヨハネの黙示録などがあります。
試練の70年間
バビロンで過ごした70年の期間は、ユダヤ人にとっては大きな試練の時でした。それまで信仰の中心だった宮(神殿)での祭儀ができなくなったからです。
律法によれば、罪を犯した人は、宮で鳥や獣を犠牲として捧げることで罪が赦されるとされていました。
しかし、宮が存在しなくなったとき、どうすればよいのか。これは彼らにとって大問題でした。そこでユダヤ人たちは皆で集まって、いにしえに記された文書を学ぶという、新しい信仰形態を発展させたのです。
宗教は、特定の場所、特定の像や事物などを聖なるものとして礼拝するのが一般的ですが、ユダヤ人たちは「聖なる文書」、つまり「聖典」を学ぶという、新しい信仰のスタイルを確立したのです。
こうして、現在、私たちが「旧約聖書」と呼んでいる文書の原型が出来上がりました。また、彼らは多くの写本を作り、文字教育に力を入れて、誰もが聖典を読めるようにしたのです。
会堂に皆が集まって聖典を学べば神に近づける、という考えは大変革であり、現在の私たちにも受け継がれていると言えます。
ダニエルの祈り
さて、70年の時が流れ、エルサレムに帰る日が近づいてきました。エレミヤの預言を読んでいて、それに気づいた預言者ダニエルは、今や荒れ果てたエルサレム、シオンの丘の光景を思い浮かべながら、神に祈りました。
…われわれの神よ、しもべの祈と願いを聞いてください。主よ、あなたご自身のために、あの荒れたあなたの聖所に、あなたのみ顔を輝かせてください。わが神よ、耳を傾けて聞いてください。目を開いて、われわれの荒れたさまを見、み名をもってとなえられる町をごらんください。われわれがあなたの前に祈をささげるのは、われわれの義によるのではなく、ただあなたの大いなるあわれみによるのです。主よ、聞いてください。主よ、ゆるしてください。主よ、み心に留めて、おこなってください。わが神よ、あなたご自身のために、これを延ばさないでください。あなたの町と、あなたの民は、み名をもってとなえられているからです」。(ダニエル 9:17-19)
次回予告
この祈りを聞かれた神は、ユダヤ人たちにイスラエルへの帰還の扉を開かれたのです。次回は、その帰還が、どのように進んだかを学びます。旧約聖書の最終回となりますので、どうぞご期待ください。